捕獲されました。年貢の納め時というやつ。
2018年07月01日 (日) | 編集 |
友人の滝原がミクシィ上に発表した、映画についての持論が、激烈に叩かれたという出来事があった。もう10年ちかく前の話になる。

滝原は映画鑑賞に人生のすべてを捧げた男。新作、旧作、邦画、洋画の区別なく愛し、古本屋やネットオークションで古い資料を高値で買いあさり、好きな女優のファンサイトを立ち上げて同志をつのる。インターネットの映画ファンの間では、シロウトながら熱い男として、滝原の名は一定の評価を得るようになった。

文字通りに命を賭けて、研究にのめりこんできた映画の世界だから強い思いがある。

滝原の主張を、ごく簡単にまとめる。

映画の評価は、あまりにストーリーの良し悪しだけに目が向けられている。レビューでは、楽しかった、悲しかった、感動したと、観客の情動ばかりが語られる。

しかし、映画は脚本だけで出来上がるものではない。映画は、映像、音楽、脚本など、それぞれの柱が調和して成り立つ総合芸術。カメラワークや、編集といった映像面、音楽や効果音がどう使われているのか、映画技術とよぶべきものに注目する視点も、もっとあって良いのではないか――。

滝原が、ずっとずっと温めてきた持論だった。

ところが、先輩たちの逆鱗にふれた。小賢しい、というのである。

批判の急先鋒に立ったのが、プロの映画評論家で『男はつらいよ』シリーズの評論活動で名の知られているS。『男はつらいよ』のシリーズDVD化に際して出演俳優へのインタビューなど、シリーズにまつわる仕事は、ほとんどSが引き受けるほど専門家として信頼されていた。

じつは滝原は、Sから、

「キミの意見は鋭くておもしろい。すこし俺の手伝いをしてみないか」

と誘われ、半ば弟子入りしたような形で、Sの著した文章について意見を求められたり、仕事を手伝うことがあったようだ。近々、Sが映画評論の仕事をくれると言っている、映画評論家への道がひらけたかな、ようやく運がめぐってきた、と、野心に燃える目をしていた滝原を思い出す。

その師匠から、徹底的に、容赦なく、やりこめられた。

Sは、

「映画は感動だ」

と断定し、滝原の主張を斬って捨てた。

「映画は感動を味わうものであり、感動を味わえる自分に育ててゆくのが大人になるということであり、それ以外を考えるべきではない。映画を作ったこともない者が技術を云々するなど、重箱の隅をつつく粗探しに快哉を叫ぶような、未熟な青二才の行いである。技術は作り手が占有すべきもので、鑑賞者が土足であがりこんでよい世界ではない」

それがわからない子どもくさいところが、お前の欠点だ、自覚せよ――と、滝原の人格批判にまで踏みこんできた。

滝原も、師匠からの批判でも退くことはできなかった。人生を賭けて考えぬいて得た持論だから、捨ててしまったら自分が賭けてきたものは、なんだったのか。

感動は大切だ、それは否定していないし、自分も映画で感動する。ただ、あまりに感動偏重主義であることを指摘しているだけだ、と訴えたが、Sは聞く耳をもたない。

「どうしてこの人は、大人になれないんだろうね? だれか、大人とはどういうものなのか、この半端なトッチャンボウヤに説明してやってよ」

滝原を、あざわらう文章を日記にあげ、マイミクをあおった。それに呼応してSのマイミク連中、年齢としては滝原より二十も三十も上の「おとな」たちが、

「むずかしいことばかり考えるな。素直さをおぼえなさい。心からの感動がたりないから、あなたのようないびつな人間ができあがるのだ」

滝原の日記に、よってたかって入れ代わり立ち代わり、遠慮のない言葉で愚にもつかぬ説教を垂れてゆく。それみたことか、おれと同意見の人間はこれだけ多い、現実をみろ、と大得意のS。

滝原の日記には大量の批判コメントがついた。滝原を応援する意見はひとつもない。正真正銘の四面楚歌。

滝原は、ぼくに電話をかけてきて、

「おれは、そこまで間違ってるのか?」

と、号泣しながら問うた。

ぼくは、ここではじめて事態を知り、おどろいた。

ひとりのたかがシロウトを、プロの評論家が賛同者を動員して人格攻撃にまでおよぶ批判をおこなう。この過剰な敵意は、なんなのか。これでは滝原でなくても、精神が打ちのめされる。よほど肝っ玉の太い人間でなければ自分を保てないだろう。

ぼくは、滝原の文章を、ゆうに二十回は読み返し、滝原はまちがっていないと確信をもった。

滝原は、映画の魅力を、もっと多角的な視点から解明したいという熱意を語っていた。人はストーリーだけに感動するのではない。人はカメラワークに、照明に、音楽にも感情を動かされているのだが、それらは「物語」の中にはおらず、画面の背後にしずかにひそんでいる。注視しなければ意識されないまま流れてしまう。気づかないのは勿体ない。味わいつくすべきだ。そう、滝原は言っていた。

どう考えても、Sの考えと対立しておらず、むしろ補強するものであるはずだった。

同時に、相手が悪かった、とも言える。Sと、その賛同者たちは『男はつらいよ』の人情噺が大好きな連中。感動したい人々なのだ。文意を読みこまないまま、感動より技術優位を訴えていると誤解したならば――あきらかに、そう誤解するようにSが仕向けているのだが――腹がたつだろうことは、一面では無理からぬことでもあった。

どうあれ、異常であることに変わりはない。

滝原を擁護する文章の骨子は単純だ。

Sは、

「映画は感動、それだけが大事」

を自明の命題として掲げ、マイミクたちも大いに賛同している。ぼくは議論に参加しておらず、しかも映画より読書派という二重の門外漢だ。だからこそ、そこに違和感をおぼえた。

映画は感動であるという。

だが、「感動という体験」を重視するならば、ぼくのように読書で感動できる人間は、映画を見なくてもよい。

ひとつの趣味にうちこんでいる人間は、ほかのことに費やす時間が惜しい。時間をかけていないのだから、理解も浅い。読書で得られる感動と、同じだけの深い感動を映画で得られるか考えれば、不案内な趣味に手をだす必要は薄い。人それぞれ、得意な趣味で「感動体験」を愉しんだほうが効率がよい。

こういう疑問をつきつけられたとき、

「もちろん好き好きでいいのですが、映画は映画で楽しいですよ、見ないなんて、もったいない選択ですよ」

と答えるのが、ふつうではないだろうか。そのとおりだ。だから「映画は感動」だけは、おかしいのだ。

読書では得られない、映画ならではの感動体験がある、という。その、映画ならではの感動とは、どこに根ざしているのか。

それこそが、滝原が主張する、映画にしかない「映画技術」が支えているものだ。

注目すべきは感動という「現象」なのではなく、感動の「質の違い」、あるいは、感情の「揺さぶられ方の違い」だ。だからこそ、読書による感動、映画による感動、音楽による感動、絵画でも漫画でもアニメでもゲームでも、それぞれに代替不可能であり、あれもこれも経験しておかなければ人生の損だと言い切れるのだ。

くりかえしになるが、なぜ、それぞれ感動がちがうのかと言えば、作品を作り支える技術が、それぞれちがうからである。人気漫画を映画化したとき、往々にして、原作漫画とは別物といってよい作品に仕上がってくる。そして、漫画と同じように成功するとは限らない。技術が異なるため単純な移植はできず、大きく作り変える必要があるからだ。

愛する趣味にこめられた技術が、どういうものか知るのはうれしいことだ。料理ならば、素材の扱いや、味付けをおぼえ、火の使い方がわかり……と、知ってゆくほどに、食事の愉しみは深く繊細なものになってゆく。作ってくれた人の腕前に感嘆し、かけてくれた手間暇に、ささげる感謝にも、より実感がこもるだろう。

知ることは、人生を豊かなものにする。

滝原は、それを言っている。すこしも奇をてらっていない。まして、粗探しなどであろうはずがない。正統で堅実な主張だと、ぼくには思える。

現に、Sがミクシィに発表した滝原とは無関係の文章を読んでゆくと、寅さんシリーズの魅力を語り、役者へのインタビューを振り返るうちに、照明、カメラ、音楽の話と、滝原が語ってることに極めて近いところに筆がすすんでゆくものが、たくさんある。映画の魅力を総合的に語るなら、その方向に流れてゆくことがあるのは当然だ。

それなのに、なぜ滝原の主張は、Sの一派に通じないのだろう?

Sは、

「感動に、素直に反応できるようになることが成熟で、それが大人ということだ」

と、滝原に教えを垂れていた。

そうだろうか? 子どもは素直に感動しないというのか? 感動する能力が大人の証ならば、大人を相手の解説は必要ないはずだ。解説されなければ感動できないのでは、そいつは大人ではない。

映画は見なくてよいし、映画評論家は子ども相手の商売だ――ぼくが、Sの話を理解すると、こうなってしまう。

この滑稽さは、なんなのだろう?

「大人を教えてやると息巻くからには、あなたの態度が、正しい大人のそれなのですね?」

とも、聞かずにおれない。

すべてあわせて考えると、

「Sさん、あなた、バカですよね?」

と結論づける他にない。滝原擁護の文章は、そのように書いた。

滝原の日記に「思ってることを書きました」とコメントをつけた。すぐに、Sを筆頭に、取り巻きの「おとな」連中の残した訪問あしあとがついた。数の多いこと。30人以上いたのじゃないかな。

日記への反応はなく、黙殺。同時に、滝原叩きも、どうという結論もみないまま終息。ぼくの文章が、すこしはSを立ち止まらせることに寄与したのかどうかは、わからない。

この出来事は、滝原のこころに致命的なダメージを負わせた。時間をかけて立ち直ってはいったが、自信を完全には回復することができず、のちに深刻な鬱病を発症する引き金のひとつとなった。

いまの滝原は、鬱病の影響もあるが、あれほど好きだった映画をまったく放棄して、強い抗鬱剤を服用しながら、AVと酒におぼれる無為の生活を送っている。女友達はおらず、男友達ですら残ったのは、ひとりか、ふたりだろう。

未来になんの希望も持てない彼が回復するのは、相当にむずかしいのではないか。

Sはといえば、

「映画はストーリーだけが大切なのではありません」

臆面もなく、滝原が熱く語っていた言葉を丸ごと自分のものにして評論家活動をつづけている。滝原はもちろん盗まれたことを知っている。ただし、滝原の目からみれば、そもそもが付け焼き刃であるから、言葉が表面的で思索に深みがないという。あるいは、滝原の負け惜しみも含まれているのかもしれないが。

これで、この話の謎は解かれた気がする。なぜ、滝原の話は通じなかったのか? ぼくごときに間が抜けていると見透かされるような理屈を、Sはなぜ振りまわしたのか?

人が、理屈にあわない行動をしているとき、掲げている理由は、手段であることが多い。口実といいかえてもいい。本心は隠されて別にある。

Sの本心とは、なにか?

ぼくは、滝原を潰すことにあったと考えている。

Sは滝原を内心で未熟だと見下し、手駒として利用できると考えていたのかもしれない。まるきりの無能は手駒にも使えないのだから、プロが使おうとする程度には、滝原は才能を持っていたのだ。

滝原が、手駒として、弟子として仕えているうちは便利だったろう。

ところが、先達であり、プロであるSが言えないことを、滝原が発信しはじめた。そこで話は変わる。越えられてしまう可能性。焦り。自分の弱点があらわになった恐怖。嫉妬をともなう怒り。

危険の察知と決断は、長年フリーランスで生きぬいてきた男である。早いはずだ。芽の出ぬうちに潰してしまおうと考えた。

Sにとって、滝原は弟子とは言っても、手塩にかけて育てたという関係ではない。滝原は、Sの思想的薫陶を受けてはいない。本質的には、むしろ異質なのだ。切り捨てる決断に、さほど良心は傷まなかったのではないか。

生存競争の厳しいフリーランスの世界では、よくあることかもしれない。映画評論など、それほどパイの大きい業界とも思えない。フリーランスの上下関係を読みきれなかった滝原も、甘かったとするべきなのだろうか。

以上は、ぼくの想像にすぎない。が、たかだか滝原のミクシィ日記に、ふつうに読めば誤解することのない文章に、マイミクをあおって攻撃を使嗾し、総スカンの空気を作り上げた異常な攻撃性の理由が、そう考えないとわからない。

真実はどうあれ、滝原は完全に人生が潰れてしまった。

この結末は悲しすぎはしまいか――。
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